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ひろびろ

中札内美術村、六花の森「坂本直行記念館」は、2011年春から竹田博志を新館長に迎えました。1970年、早稲田大学第1文学部を卒業後、日本経済新聞社に入社。2010年8月、東京本社文化部編集委員を退職。世界の美術動向を数多く執筆してきた経歴を、この新天地で発揮いたします。

2012. 2. 9 「主のいないアトリエ」
2011.12. 28 「湯豆腐 VS 冷や奴」
2011.12. 4 「裸のほとけ」
2011.10.15 「ささやかな大発見!」
2011. 9. 5 「自称美術学校落第生」
2011. 8.13 「カリスマ来村」
2011. 8.10 「世界でただひとつの”絵”」 

「主のいないアトリエ

 中札内美術村の小泉淳作美術館当主、小泉淳作先生が亡くなった。一月九日朝のことだった。もう一カ月になろうとしている。

 逝去の日の午後、遺体の帰られた鎌倉の小泉邸へうかがった。その足で二階へ上り、そっとアトリエの戸を開けてみた。主のいないしんとした部屋を一望すると、眼を射るものがあった。手前の机の上に、みずみずしい冬瓜(とうがん)が置かれてあったのである。淡い緑の肌に、うっすらと白い粉を吹いていた。けなげにこの冬瓜は、じっとアトリエの主(あるじ)の生還を待っていたのである。奥の方には描きかけの絵も立てかけられていた。

 小泉先生の「冬瓜図」は巌(いわお)のような存在感を持っていた。ある時、銀座の個展の会場に日系アメリカ人の彫刻家、イサム・ノグチが現れた。彼は「冬瓜図」の前へ来るとピタリと立ち留まって久しく動かなかった。じっと、穴のあくほど「冬瓜図」をみて画廊主に一言。「この絵には神が宿っている」(うれしいことにこの「冬瓜図」は、中札内美術村・小泉淳作美術館コレクションの一点となっている)。

 私は幸いなことに約四十年間、日本経済新聞社文化部の美術記者として、東山魁夷画伯の唐招提寺障壁画、加山又造画伯の天龍寺法堂(はっとう)天井画の龍図、平山郁夫画伯の薬師寺玄奘三蔵院の壁画など各画伯渾身の制作を親しく見、折々にその模様を特集記事として記してきた。そんな中で小泉画伯の、鎌倉・建長寺法堂「雲龍図」、京都・建仁寺法堂「双龍図」、奈良・東大寺本坊襖絵四十面という大画業はその質と量において卓越していると自讃する。しかし、前記三画伯に比べて小泉先生の制作は、きわめて地道に進められた。鳴り物入りのかしましさとは全く無縁だった。「ゆっくり行く者はすこやかに行く。すこやかに行く者は遠くまで行く」という欧州のことわざの通り、いつの間にか、とうとうあの大画面を完成させてしまわれたのである。なんという強靭な精神力だったろうかと改めて思う。

 極め付きは、東大寺襖絵完成の暁に放った一言だった。「こういう仕事というのは、俺が、俺が、という気持じゃできないんだ。己をむなしくしてかからないと無理なのだ。だから私はこの襖絵には自分の署名も落款も入れていない」。この襖絵の桜の間シリーズが完成した時、内覧発表会が建長寺客殿で行なわれた。その時小泉先生は、「願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という自ら書した小さな額入りの色紙を「しだれ桜」の脇に立てかけ、無言でそれを指さされた。私ははっとした。先生は命がけの覚悟でこの仕事をやり遂げられたのだということを示されたのだ。

 三十余年にわたって親炙してきた小泉淳作先生の思い出はつきない。今はただ茫然と切れ切れの記憶の糸をたぐり直しているが、空しい。しかし、最もありがたいことは、わが中札内美術村に来れば、小泉先生の名作の数々がこの眼で見れるということである。鳥海山をはじめとする山水画群、冬瓜などの花卉(かき)図の数々等じっくりと心ゆくまで鑑賞することができる。一月二十八日に尾道市立美術館を訪ねた。閉幕一日前の「小泉淳作展」をのぞきたかったのである。そして改めて先生のどの仕事もゆるぎない芸術的信念に貫かれ、雄勁な生動感に満ちていることに目を見張った。

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「湯豆腐 VS 冷や奴

 十二月の始めに尾道へ行ってきた。

 尾道は、私の前任の館長、高橋玄洋先生のふるさとである。玄洋先生については忘れられない思い出がある。私の前職の日本経済新聞社文化部記者時代に、「冷や奴万歳」といった主旨のエッセイを文化面に書いていただいたことがあるのだ。事の発端は、わが美術村の日本画家、小泉淳作先生が書かれた一文にあった。

 小泉先生は大の湯豆腐党で、春夏秋冬、晩酌の場に欠かされたことがなかった。そこで、「夏でも湯豆腐」という一文を日経の文化面に執筆いただいた。日本酒を口に含む時の最良のパートナーは湯豆腐である、というもので、くわしい湯豆腐のやり方やレシピも記された、ほのぼのと心暖まる名エッセイであった。

 いつの日だったか、高橋玄洋先生にこの「湯豆腐讃歌」を大いに吹聴したところ、先生はにこにこしながら、「いや、豆腐は冷や奴。絶対に冷や奴に限ります」と頑然、力説されたのである。その時、小賢しい記者はヒラめいた。玄洋先生にも日経文化面に、「冷や奴讃歌」を綴ってもらい、「湯豆腐VS冷や奴」の論戦を展開しようと。

 高橋玄洋先生の「冷や奴党の弁」も、周到に記された見事なものだった。灼熱、炎天下の夏の夕べ、客を迎える宅の玄関までのアプローチには丁寧に打ち水をして・・・、といった風な、思わず奴豆腐を食べたくなるような快文だった。私は一人、悦に入ったものだ。豆腐合戦の勝負の行く末は判然としなかったが、私の尾道行きは、このお二人の温・冷両様の豆腐好きのかかわり合いから生まれたことのように思えた。尾道市立美術館で、中札内美術村所蔵の小泉淳作先生のコレクション約六十点が公開、展示され、12月3日、私はその「小泉淳作展」(平成24年1月29日まで)の開会式に出席させていただいたのである。

 中札内美術村はこの11月3日をもって厳冬期の休村となった(来年の4月下旬に再オープン)。五ヵ月余の冬眠に入るはずだった小泉先生の作品が、陽光さんさんの尾道の地で出開帳(でがいちょう)されたのである。この名案の背後には、尾道ゆかりの高橋玄洋先生がおられるような気がする。尾道市では平谷祐宏(ひらたに・ゆうこう)市長自ら開会式に出席された。市長は、「来年は辰年です。龍図の大作を二つも手がけられた小泉先生にぜひあやかって、来る年がいい年になれば・・・」と語られたのが印象に残っている。そのせいか、ミュージアムショップでの龍図の絵葉書の売れ行きが好調だそうだ。

 ちなみに、小泉先生はいつの頃からか、日本酒党からワイン党に転じられた。よって、先生宅の食卓から、「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」(万太郎)といった風情は薄れたようなのが残念である。

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「裸のほとけ」

 たかだか六十歳をなかば過ぎたほどの鼻たれ小僧が、こんなことを言うのはおかしいかもしれないが、「長生きはするもんだ」と思ったのである。奈良、東大寺の南大門をくぐると、さきごろオープンした東大寺ミュージアムがある。そこに鎮座まします法華堂(三月堂)のご本尊、不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)さま(※)を仰ぎ見て一驚してしまった。観音さまが丸裸で立っておられた!―そのように感じた。なんという珍らかなる光景であろうか。このほとけが法華堂の本尊として立たれて今日まで約千三百年弱。宝冠、光背を外して衆生の前に姿を見せられたのは初めてのことではあるまいか。こんな千載一遇のチャンスに恵まれたことを幸運に思うとともに、宝冠、光背という飾り物がなくどこか寒々とした風情で立っておられる姿にはとまどいをおぼえたのも事実だ。
 あの法華堂のほの暗い森厳(しんげん)とした中に立っておられたほとけが、いま、免震構造を施された明るく近代的な展示室に置かれている。不空羂索観音像のすごさは、あの暗い法華堂の中でこそ秀でてみえるような気がする。白洲正子さんは、この仏像ではなく奈良・桜井市の聖林寺(しょうりんじ)の十一面観音像について次のように綴られたのを思い出す。「新築のお堂の中で眺める十一面観音は、いくらか以前とは違って見えた。明るい自然光のもとで、全身が拝める利点はあったが、裸にされて、面映ゆそうな感じがする」(『十一面観音巡礼』)。新築のお堂に安置する時は要注意というところであろうか。この観音像と法華堂の本尊は天平彫刻の両雄として、昔から何かと比較鑑賞されてきたことも面白い。
 ちょっと脇道にそれるが、そのことに少し触れておこう。聖林寺の十一面観音びいきは和辻哲郎、白洲正子さんら数多い。和辻は『古寺巡礼』の中で「天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしはむしろ聖林寺の十一面観音を取るのである」「聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う」と言っている。これに対して不空羂索観音派はまず、東大時代に和辻の教えも受けた東洋美術史家の町田甲一や和辻の友人で『古寺巡礼』に「Z」というニックネームで出てくる原三渓(富太郎)の長男、原善一郎らである。町田の師の一人で美術史家の児島喜久雄は、「あの間の抜けた聖林寺十一面」と一言のもとに切り捨てている。町田は日本画家の小林古径に親炙したらしいが、古径に聖林寺仏の感想をきいている。そして、「うん、ありゃ、よくない」との言質を引き出し一人合点しているのが愉快だ。
 そもそも法華堂の本尊が裸同然で鎮座されるという奇観の発端は、法華堂の修復工事にあった。工事に当ってこの本尊をはじめ梵天、帝釈天や四天王像などの乾漆像、日光、月光菩薩、執金剛神像などの塑像、つまり法華堂の仏像がすべてよそへ移されることになった。その中から不空羂索観音とその宝冠、化仏(けぶつ)や日光、月光の両菩薩が、東大寺ミュージアムに仮安置されたのである。
 この“新発見”は、十月の末に客員教授をしている多摩美術大学の三年生21人と京都、奈良へ古美術研修に行ったからこそできた。しかし、あらためてこの「裸のほとけ」を書く段になって少々不安になってきた。本当にあのご本尊は裸みたいだったろうか、とその印象が危うくなってきた。そこで一ヵ月後に天理市に用ができたついでに再度、東大寺ミュージアムに立ち寄ってみた。やはり第一印象のままで安心した。ちなみに私は、聖林寺十一面に心ひかれる「聖林寺派」である。みなさんも奈良へ行かれたらぜひ東大寺ミュージアムと聖林寺を訊ねてみて下さい。

 

(※)羂索とは、本来は猟に使う罠のこと。大悲の羂索で、もらさず(不空)一切の衆生を救いとる、という意味がこめられている。

2011.12.4記

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「ささやかな大発見!」

 近ごろ私は、仏像や仏画と対面する時には、必ず足下を注視するように心がけている。仏様の両方の足、とくに足の指がどのように表現されているかが気になるのである。
 あれは、古巣の新聞社の日曜版に、「かんのん道をゆく」という連載記事を書いた時のことだった。一人の読者からびっくりするような投書がきた。
 私が、奈良の法華寺の「十一面観音像」のカラー写真の下に次のような注釈をつけた。「右足に注目したい。親指をわずかに反らせ、一歩、見る者の方へ踏み出す気配を見せている。『遊び足』といい、優雅で女性らしいたおやかさである」。白州正子さんの著書の受け売りだったのだが、医学部の教授というその読者からの指摘に私は心底驚いた。40年近く新聞記者をしてきたが、読者からの手紙で受けた衝撃の大きさとしてはベスト3に入るものだった。
 ちなみに、この十一面観音像は、聖武天皇の妃の光明皇后をモデルにしているとの言い伝えがある。わが小泉淳作先生が、東大寺に聖武天皇、光明皇后の尊像を揮毫された折にはこの像も参考にされた。教授は記す。「(自分は)先学の研究に触発され、『遊び足』に似た足指の表現を世界中の美術品から探し出し、医学の立場でそれを研究している」という。「イタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館を訪ねた時、多くの聖母子像の、幼児キリストの足の親指が背屈していた」と彼は記していた。ルネサンスの画家では、チマブーエやジオットが親指の背屈を描いているそうだ。わが国では法華寺の十一面観音像のほか、東京・浅草の浅草寺の仁王像の足指が上に反っているという。早速、おっかなびっくり、浅草寺へ馳せ参じて、吽形像の右足の親指がグッと上に反っているのを見た時は大感激だった。
 さて、これからがタイトルの、「ささやかな大発見!」の報告の段です。かの教授に私が毎年、中国甘粛省の敦煌の石窟訪問を続けている、と伝えたところ、ぜひ敦煌の仏様に『遊び足』がないか探してみて下さい」と言われた。その歳の夏の敦煌訪問の折、いろいろ探索をしたが、空しかった。敦煌の莫高窟の南地区には492の石窟があり、2000体以上の塑像と延べ45,000uの壁画がある。壁画の主人公は仏様だから、何体の仏像があの石窟全体に描かれているのか見当もつかない。そのぼう大な仏像の中に、せめて一体ぐらい、『遊び足』の仏がおられてもいいのではないか…。  
 みなさん、万歳!とうとうことしの訪問で見つけました。『遊び足』の仏は莫高窟ではなく姉妹窟ともいうべき敦煌郊外の安西というところの楡林窟(ゆりんくつ)にありました。楡林窟第25窟は、中唐時代(781〜848年)のもので、壁画は整った構図と流麗な描線など莫高窟の壁画にひけをとらない美しさ、見事さで古来名高いところ。  
 昨年もこの窟は見たはずなのにみつけられなかった。今年はツアーの講師として中国仏教美術が専門のY君も同行してくれたのでゆっくりと壁画と対することができた。それが良かったのだと思う。いつもなら目もくれない四方の壁の隅々にまで目をこらしていたら、東の壁にすっくと立っておられる地蔵菩薩の足が『遊び指』だったのである。右足をグッと前へ踏み出した表現。これから衆生の済度に行こうという意志の力のこもった足の表情。瞬間、「えっ」とまず目を疑い、「まさか」とドキドキし、「ヤッター」と歓喜の思いが身内を走った。  
 しかし、これは私だけの「ささやかな大発見!」。ツアー仲間は、盧舎那仏を主尊とする八大菩薩曼荼羅図についてのY君の流暢な解説に聴き入っている。私は、飛び上がって万歳三唱したい喜びを内に秘めて、一行の見学の輪に戻った。その日のメモ帳をみてみると、第25窟は楡林窟到着後3番目に見学した石窟で、「25くつ、遊び足、じぞう」と記してあった。

2011.10.15記

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「自称美術学校落第生」

世界地図を広げて、中札内美術村に近い北緯43度線を西へ西へとたどって行くと中国大陸に至る。首都・北京は3度南の北緯40度線付近に位置する。その40度線をさらに西へ西へと追っていくと、東経95度線と交わるあたりにあるのが敦煌の町である。
 今回秀逸だったのは、一行の中に曹洞宗のお坊さんがお
 8月末の8日間、敦煌石窟を訪ねた。毎年のように同じ時期に石窟巡礼を重ねて今回が5度目となった。この時期の敦煌周辺は果物が甘く甘く熟れてうまいのだ。ハミ瓜、メロン、水瓜、ブドウ、桃…とろけるようだ。日ごろ美しいものを見て「眼福」を得、おいしいものを口にして「口福」を楽しむという二つの福を追うことに余念のないカンチョーさんは嬉々として出かけた。
 勝手が少し違ったのは、今回は21人のツアー客の講師としての敦煌行だったこと。古巣の新聞社の子会社の企画で、アゴ、アシ付きで日当も出るというから、毎年、敦煌見学を志す者としては一も二もなく飛びついた。日本各地から、上は80歳から20代まで、いろいろ。職種もさまざま。多くは私のように後期高齢者予備軍のご夫婦だった。られ、石窟内にひざまずいて「般若心経」を朗々と唱えてくださったことだ。みんな神妙にそれに和して仏を拝んだ。そのあと訪ねた大同の雲岡石窟でも読経してくださった。こんな体験は初めてで、うれしかった。私の敬愛してやまない元日経新聞社長の円城寺次郎さんは、敦煌石窟の中で同行の築地の料亭の息子と茶会をして楽しんだのを知っているが、読経はされたことがあるだろうか?
 先のお坊さんは、ツアー最終日の食事会で、「30年前にNHKのシルクロードの番組を見て、敦煌行きを志したがそれがようやくかなった…」とあとは涙で絶句してしまった。あのNHKの番組に触発されて今回の旅に加わった人は何人もいた。
 もう一つ素晴らしかったのは、旅行社が企画してくれた石窟内での音楽会。二胡、揚琴、簫の合奏だった。二胡は二弦の胡弓、揚琴は洋琴ともいい中国の打弦楽器。簫は中国の竹製の縦笛である。「陽関三畳」「紅楼夢」「歓迎悠 再来敦煌(また敦煌へ来てください。歓迎します)」「草原の夜」の4曲だったが、いささか壁画づけでくたびれた心身に心地よく響いて皆、大感激した。
 この音楽会は、敦煌が一般に開放されて以来二度目のこと。最初はやはり円城寺元社長が20年ほど前に催したという。円城寺さんは、敦煌が一般公開されて訪問した日本人第一号だった。最新のカメラで撮りまくった写真を日経紙上でカラーの大特集を展開。その時、新米記者の私も編集スタッフとして呼ばれた。たまたま弥勒菩薩の写真が写っていたので「弥勒さんは釈迦入滅後56億7千万年後に仏となってこの世に出現されるんですよね」と言ったところ、この坊主頭は妙なことまで知っとるわい、とでも思われたのか、以後美術専任記者となったしだい。弥勒さまさまである。私は日経の社員だったというより、「円城寺美術学校」の落第生を誇らかに自称している。

2011.9.5記

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「カリスマ来村」

 夏は美術村のホットなシーズンだ。あの広い駐車場が日本中のナンバープレートの車でうまる。その隣の広場に8月初めから、いろいろな「かたち」の作品が計10点並んだ。「座ってみたい北の創作椅子展2011」の一次審査通過作品である。
 8月6日に行われた椅子展の審査に立ち会った。審査員は東京都現代美術館事業企画課長の長谷川祐子さん。昨年まで審査員を務めた建築家・妹島和世さんからのバトンタッチだが、驚いたことに、その妹島さんも美術村に来て下さった。とても忙しいはずのカリスマキュレーターとカリスマ建築家が美術村へ。ぜいたくなことだった。
 長谷川さんの水際だった選考の結果、大賞は寄神盛衛さん(京都・33歳)の「jungle BENCH」。菅村文雄さん(愛知県・27歳)の「ビニールハウスベンチ」と永井潤一さん(神奈川・25歳)の「点」が優秀賞に決まった。
 お知らせを二つ。日本経済新聞朝刊文化面で掲載中の小泉淳作先生の「私の履歴書」が好評連載中だ。美術村の小泉淳作美術館にさりげなく飾られた作品のひとつひとつが、長く地道な明け暮れの末に生み出されたことをつくづくと知るのである。
 来る9月24日(土)には、北の大地美術館にタレントの山田邦子さん、彫刻家の板東優さんを招いて「包装紙力を考えよう」、というトークショーを開きます(12:30開場)。六花亭の代名詞、花柄包装紙の生誕50周年を記念しての企画で、包装紙というものに焦点をあわせ「包む」という人間の行ないについてあれこれ語ってもらいたいと思っています(司会は私がつとめます)。ご期待下さい。

2011.8.13記

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「世界でただひとつの“絵”」

 この4月に新米の館長になって3ヶ月余。まだ若葉マークの、おぼつかない日々の中にも、時折、おっと思うような美にまつわる新発見がある。そんな「アート驚くタメゴロー」の感動をつづって行きたい。
 第1段は、7月末に『着てみたい北のTシャツデザイン展2011』の審査で来村されたイラストレーター、南伸坊さんの口から飛び出した。レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は1999年に完全修復されたので、修復以前の状態を知ることはもう不可能だ。そんな話になった時、南さんは「世界でただひとつ、修復前の様を見ることができる場所がある。しかも、原寸大で」と言った。居合わせた全員が「えーっ」と声をあげたが、何と徳島県鳴門市の「大塚国際美術館」には、修復前のものと修復後の陶板画が2点、原寸大で展示されているのだ。陶板に写し込まれたものとは言いながら、“生前”の息吹をううかがい知るには十分であろう。
 修復前の方が画面に力があったという声も多い中、この1点は貴重である。ミラノの、サンタ・マリア・デッレ・グラーツィエ修道院で数年前、私は修復後の「最後の晩餐」を見たが、今度は改めて鳴門市へ出かけ、修復前の画面の雰囲気に触れてみたいと思う。

2011.8.10記

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