中札内美術村の小泉淳作美術館当主、小泉淳作先生が亡くなった。一月九日朝のことだった。もう一カ月になろうとしている。
逝去の日の午後、遺体の帰られた鎌倉の小泉邸へうかがった。その足で二階へ上り、そっとアトリエの戸を開けてみた。主のいないしんとした部屋を一望すると、眼を射るものがあった。手前の机の上に、みずみずしい冬瓜(とうがん)が置かれてあったのである。淡い緑の肌に、うっすらと白い粉を吹いていた。けなげにこの冬瓜は、じっとアトリエの主(あるじ)の生還を待っていたのである。奥の方には描きかけの絵も立てかけられていた。
小泉先生の「冬瓜図」は巌(いわお)のような存在感を持っていた。ある時、銀座の個展の会場に日系アメリカ人の彫刻家、イサム・ノグチが現れた。彼は「冬瓜図」の前へ来るとピタリと立ち留まって久しく動かなかった。じっと、穴のあくほど「冬瓜図」をみて画廊主に一言。「この絵には神が宿っている」(うれしいことにこの「冬瓜図」は、中札内美術村・小泉淳作美術館コレクションの一点となっている)。
私は幸いなことに約四十年間、日本経済新聞社文化部の美術記者として、東山魁夷画伯の唐招提寺障壁画、加山又造画伯の天龍寺法堂(はっとう)天井画の龍図、平山郁夫画伯の薬師寺玄奘三蔵院の壁画など各画伯渾身の制作を親しく見、折々にその模様を特集記事として記してきた。そんな中で小泉画伯の、鎌倉・建長寺法堂「雲龍図」、京都・建仁寺法堂「双龍図」、奈良・東大寺本坊襖絵四十面という大画業はその質と量において卓越していると自讃する。しかし、前記三画伯に比べて小泉先生の制作は、きわめて地道に進められた。鳴り物入りのかしましさとは全く無縁だった。「ゆっくり行く者はすこやかに行く。すこやかに行く者は遠くまで行く」という欧州のことわざの通り、いつの間にか、とうとうあの大画面を完成させてしまわれたのである。なんという強靭な精神力だったろうかと改めて思う。
極め付きは、東大寺襖絵完成の暁に放った一言だった。「こういう仕事というのは、俺が、俺が、という気持じゃできないんだ。己をむなしくしてかからないと無理なのだ。だから私はこの襖絵には自分の署名も落款も入れていない」。この襖絵の桜の間シリーズが完成した時、内覧発表会が建長寺客殿で行なわれた。その時小泉先生は、「願はくは花のしたにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」という自ら書した小さな額入りの色紙を「しだれ桜」の脇に立てかけ、無言でそれを指さされた。私ははっとした。先生は命がけの覚悟でこの仕事をやり遂げられたのだということを示されたのだ。
三十余年にわたって親炙してきた小泉淳作先生の思い出はつきない。今はただ茫然と切れ切れの記憶の糸をたぐり直しているが、空しい。しかし、最もありがたいことは、わが中札内美術村に来れば、小泉先生の名作の数々がこの眼で見れるということである。鳥海山をはじめとする山水画群、冬瓜などの花卉(かき)図の数々等じっくりと心ゆくまで鑑賞することができる。一月二十八日に尾道市立美術館を訪ねた。閉幕一日前の「小泉淳作展」をのぞきたかったのである。そして改めて先生のどの仕事もゆるぎない芸術的信念に貫かれ、雄勁な生動感に満ちていることに目を見張った。 |